私は先代宮坂寅治の宮坂家の長男として昭和18年にごく平凡な家庭に生まれました。
父母は綿の打ち直しの仕事を中心に家業を営んでいました。
父は大変子煩悩で、いつも笑顔で明るく、近所の子供を集めてはバリカンで頭を刈ってやり、夏になると、川で水遊びをする頃は家の前に小川が流れていましたので、家の廊下を脱衣場として開放し、近所の子供の姿を見ては満足そうにしている様子が思い出されます。
このような父でしたが、将棋が趣味で、大変清潔好きでその上「おしゃれ」でいつもきちんとしていました。
仕事は朝早くから工場に入り、すきを見ては配達し、母と一緒に一生懸命働き、稲荷山町で自動車がまだ珍しい頃、いち早くオート三輪を購入し、綿の集配を行っていました。商売に対し、非常にまじめに取り組んでいたことをよく覚えております。
私が小学生の頃は、母が病気で長野の病院通いが始まり、学校から「ただいま」と帰っても家にだれもいなく、非常に寂しい思いをしました。
夏休みに入った時は、母が病院に行く時は、「お前も一緒に行こう」といって長野まで汽車に乗って連れていってもらうことが幾度もありました。楽しいひとときでした。
その時は必ず当時ではめったに食べられないバナナかアイスクリームを食べさせてくれたことが懐かしく、忘れられない思い出として残っています。
それが3年か4年ほど続いた記憶がありますが、母は元気を取り戻し工場に入ったり布団造りを始めたりして、父と共に休むことなく働いていました。
その母は昨年9月95歳の天寿を全うしました。本当に長生きをしてくれました。父は十三回忌になり、今は両親に深い感謝の気持ちでいっぱいです。
その後、事業は忙しく、順調になり工場を新築しました。そんな矢先、昭和37年に近所の火事の飛び火で新築したばかりの工場が全焼してしまいました。
私が高校3年の時でした。父と母の非常にショックを受けた姿を見ながら、親子で涙を流しました。
家族で毎日毎日話し合いを続け、今後どうするかいろいろ悩みました。お客様からお預かりした綿も全て焼けてしまったのです。幾度かの話し合いに、私も一緒に参加しました。その時、父は、銀行、お取引の問屋様そして多勢のお客様から「宮坂さん、頑張って商いを続けたらどうか」との励ましをいただいて、綿屋を続けることを決断しました。
父母と涙を流しながら決断したことを、今でもしっかりと記憶しております。この時、更なる親子の絆がしっかりできたと思います。
わたしも学生ながら、父母にだけ苦労をさせてはいけない、長男として父母を助けようと決心し、当時学校が休みの時は配達したり、工場に入ったり、母から布団造りを教えてもらったりしました。親の助けになればとの思いから、一生懸命に頑張りました。そして、卒業後は、即、家業に入りました。
仕事を続けていくうちに、徐々に自分の我がままが出たり不満が出たりして、当時の親子の絆が薄れていくことがありました。
そんな気持ちでいると、父母は「お前は自分で決心したことを忘れたのか。あの時のことを思いだせ。男として己に負けるな」と叱られたことが度々ありました。
私も「悔しさ」と自分の「意気地なさ」が重なり思い悩む辛いときも多々ありました。
綿屋は嫌だと思うようになり、もっといい仕事をしたいと毎日思いながら仕事をしている時に中学生の時に学んだアメリカの「TVC5か年計画」を思いだしました。
― 借金は5年間で返そう ―
そして嫌だと思った綿屋から業種転換しようと思いたちました。
当時流行ったエバーソフトのマットレスが飛ぶように売れ、眠ることに的を絞り、これからはベッドの時代になると予想し、ベッドの販売に力を入れ始めました。
メーカーの協力・指導を忠実に守り、毎日綿を配達しながら、ベッドの拡販に努めました。しかし、なかなかお客様に取り合ってもらえない日々が続きました。当時は昭和40年代のことです。「ベッドは無理か」と思いながら、よし今度は分割ベッドで「昼はソファ、夜ベッド」を売ろうと決め、車に現物を載せて、お客様の家でセットして提案販売をしました。ようやくお客様に喜んで使っていただけるようになり、毎日の営業が楽しくなりました。
自分の思いどおりに仕事ができると自分に自信がつき、思いきり仕事が好きになりました。
自分なりに目標をたて、それに向かって夢を実現するよう毎日が数字との戦いになりました。そして5年経過し、今度は古い店を店舗兼住宅に改築し、寝具店として営業を始めました。再び五か年計画でした。
昭和47年、私は28歳になり、縁あって結婚しました。
そこで今度はブライダルに重点を置き婚礼布団・引出物に力を入れ、御婚礼の情報収集をしたおかげで、いろいろな情報が集まり一段と事業意欲が湧いてきました。
次に考えたことは、同業他社との差別化を図るため、大型バスで結婚式当日の会場へのお客様の送迎サービスはどうかと思いつき、実行しました。
この企画が大変ご好評をいただき、ミヤサカの大きなピーアールにつながり、御婚礼布団・引出物が大変大きな売り上げとなりました。
商いを始めたからには億単位の売り上げにするにはどうしたらいいか、今の店ではだめだと考え、もっとたくさん品揃えができる店、お客様に満足していただける店、基地的店舗にしようとの思いで、寝具・インテリアの専門店として本店(稲荷山店)を大きく新築しました。
店売り強く、外販強く、ルート販売(経済連の指定をいただき、農協様の葬祭事業に参入)に強くと、三本柱で事業を展開しました。
毎日が本当に忙しく、夢に向かって邁進した時代でした。
平成7年、今から20年前に川中島店を新築、新しい地域のお客様に向けた寝具・インテリア専門店として開業しました。社員も増え、多くのお客様にも恵まれて事業を展開していった時代です。
子供は男3人に恵まれました。
そして川中島店新築と同時に次男の宮坂彰男(現専務)もカーテンの仕事を頑張り始めました。
四代目、長男の宮坂昇道(現社長)は7年前に社長を引き継ぎ、多くのお客様のご支援を賜り、広告・宣伝の効果もあり、おかげさまで、ここ数年、枕と布団、カーテンでお客様からの多大なご支持を頂戴しております。
私どものモットーであります「健康な眠り」さらに「いやし」をもとに全社一丸となって社業に励んでおります。
また、ミヤサカ長野店は、長野駅のミドリ駅ビル内で5年間営業の後、今年の3月に、長野市権堂町アーケード内に移転オープンさせていただきました。
今まで長い間、年中無休で営業してまいりましたが、本年8月より全店水曜日定休日をいただくことになりました。これからも、地域での人と人とのかかわりを大切に歩んでいきたいと心から願っております。
多くのお客様に感謝、メーカー様に感謝、社員に感謝、ご先祖様に感謝申しあげます。
父母が築いた地味に「かたく」の精神に基づき、これから先も営業させていただきますので、皆様には相変わらずのお引き立てのほど、よろしくお願い申しあげます。
平成27年10月吉日